「闇が滲む朝に」🐑章 第32回「自分が飛んでいる。あの体験が全てを変えた」
自分がどこかに飛んでいる
リングのコーナーポストから飛び降り、相手選手のラブレスタ―めがけて身体をぶつけていった筈のヒゲさんの身体は、悲惨にもマットに全身を打った。そこにラブレスタ―の姿はなかったのだ。ヒゲさんはその時・・・・・・。自分がどこかに飛んでいると感じた。
自分がゆっくり空を飛びながら、やがて見えてきたのは霧の中に浮かぶ川だった。その先にどこかで見た記憶のある人たちがいる。にこやかとはいえないが、確かに手を振ってこちらに来るように促している。ヒゲさんはいい気持ちのまま、川を渡りそちらの方向に行こうとした。しかし、どこからか、「まだ、そこはダメだよ」という声が聞こえてきた。
まだ、そこはダメだよ
ヒゲさんはその声を無視して再度、その川を渡ろうとした。
「まだ、そこはダメだよ」という声が聞こえたかと思うと、誰かがヒゲさんを地上に戻そうと身体を引っ張った。その瞬間、ヒゲさんは再び激痛を感じて目を覚ました。
ヒゲさんが再度、目を覚ましたのは自分が病院のベッドに寝ている時だった。ヒゲさんはラブレスターとの試合中に心臓発作を起こし失神したのだ。その後もプロレスのマットに上がり試合を続けたが身体の不調が続き、失神した1年後に本当にプロレス引退を決意した。
あの体験が全てを変えた
・・・・・・・・・・・・。
あの時、自分に「まだ、そこはダメだよ」と声をかけてきたのは誰だったのか。
「竜乃湖」のほとりでストレッチをしながらヒゲさんは思う。あのまま、自分は向こう岸に渡っていたら、こうしてジョイを連れて「竜乃湖」には来ていない。
ヒゲさんは大きく深呼吸する。傍らには寝そべるジョイが長い舌を出しながら、気ぜわしくハアハアと息をしている。
ヒゲさんは自分がリング上で、あの「自分が飛ぶ体験」をしてから、この世界は神秘で、「竜乃湖」のことを聞いた時に、「竜」は存在するかも知れないと思うようになった。だから「竜乃湖」の近くに住みたいと思ったのだ。
学生時代からレスリングに励み、そのままプロレスの世界で生活するようになったヒゲさんは、それまで精神世界にはあまり関心はなかったが、試合中の「あの体験」が全てを変えてしまったのだ。
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「闇が滲む朝に」🐑章 第31回「壮絶な空中戦の末にプロレスのマットに沈んだヒゲさん・・・」
ジョイと竜乃湖を目指して走る
ヒゲさんは夕闇の林の中を「竜乃湖」を目指して走る。後方からジョイがハアハアと息を切らせながらついてくる。前足と後方の足はリズミカルに動く。
ジョイはヒゲさんの走る間隔には慣れている。もうこの坂道を上り降りし始めて2年半が過ぎた。ジョイがヒゲさんに出会ったのは3年前だ。
ヒゲさんはこの地に引っ越してきてからすぐにペットセンターへ行き、ジョイを見つけてきたのだ。ジョイのような大型犬に手綱をつけずに散歩するのは、都会や人の集まる所では決してできることではないが、幼い頃からこの木々がうっそうとする土地で、厳しく訓練してきたジョイなら大丈夫だという自覚がヒゲにはあった。だから、成犬になってもジョイに手綱をつけたことはない。もちろん、ヒゲさんが散歩するコースは人が歩くような場所ではないが。
目の前に現れたある光景
やがて、ヒゲさんとジョイの目の前に「竜乃湖」が現れた。
夕闇の霧の中にうっすらと湖が浮かぶ。
ヒゲさんはここに来るたび、ある光景を思い出す。5年前の試合のことだ。
ヒゲさんはその日、武道館でジュニアへビュー級選手権試合への挑戦権を賭けた試合を行っていた。相手はメキシコ出身の気鋭のレスラー、ラブレスタ―だった。
ラブレスターは来日してまだ1年に満たない選手だったが、空中戦はもちろん、その技の切れの良さは来日したこれまでのジュニアへビュー級の選手の中でも群を抜いていた。お互いがリングのコーナーやロープを使った空中戦を出し続ける試合は、開始直後から白熱したものとなった。
命を賭けたJr・へビー級の試合
へビー級と違い、ジュニアへビー級の試合はスピードがものを言うのだ。ヒゲさんも負けじと空中殺法で応戦を続けた。試合は15分過ぎ、お互いのパワーを炸裂しながら、ヒゲさんがラブレスターをロープに投げ、ターンしてきたラブレスターにキックドロップ、そこで倒れるラブレスターを引き起こしジャーマンスープレックスホールドをかけた。レフリーがカウントをかける。ラブレスターがカウント2でヒゲさんを跳ね返す。
すかさずヒゲさんはラブレスターを後方から抱えバックドロップを仕掛けた。天を見上げるようにマットにラブレスターが沈む。ヒゲさんがコーナーポストに上がり、ラブレスターにめがけて自身が飛び込もうとした瞬間だった。ヒゲさんは心臓の急激な痛みを感じたのだ。
激痛がヒゲさんを襲ったが、本人はコーナーポストからラブレスターにめがけて自身が飛び込んだ。しかし、ラブレスターはそんな彼の身体を見逃さなかった。一瞬、身体を翻すと、ヒゲの身体はマットに突き刺さった。そこにラブレスターの身体はなかった。
この時、ヒゲさんは自分がマットに沈んだ感覚がなかったのだ。
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「闇が滲む朝に」🐑章 第30回「ヒゲさんがプロレスラー引退を決意した理由」
かつてプロレスラーだった男
徹の目の前には1枚の写真が飾られている。それはリング上に立つ2人のレスラーの姿だった。1人は天源一郎、そして、もう1人はヒゲさんだ。今の風貌とは若いが確かにヒゲさんだと分かる。
「ヒゲさん・・・・レスラーだったのか」
徹はソファーのテーブルの方に降り返った。
「そうなの・・・そういわれてみれば、何となく分かるわ」
はなえがトロフィーが並べてある応接間の周りを何となく見渡した。
「こんなに沢山のトロフィー・・・・凄いわね。ヒゲさん」
はなえが納得するように首を縦に振った。
「おまたせしました」
ヒゲさんの奥さんがコーヒーを運んできた。
「奥さん、お気を遣わずに。お名前は・・・」
はなえが聞いた。
「あら、ごめんなさい。申し遅れました。京子です」
京子がはなえと徹の前に丁寧にコーヒーをゆっくりとテーブルの上に置いた。
学生時代はレスリング部に
「すみません、今日は夜に『もとずろう温泉』に出かけるから、今、ジョイを連れて散歩に出ました」
京子はヒゲさんが散歩に出かけたことを告げた。
「せっかくお誘いして、すみません」
「いえいえ、大丈夫ですよ。ヒゲさんと会わなきゃ『竜乃湖』にも行けなかったですから」
徹がコーヒーに砂糖を入れた。
「ヒゲさん、プロレスラー・・・だったんですか」
徹がコーヒーをゆっくりと飲んだ。
「ええ。もう引退しましたので」
「でもトロフィーの数が凄いですね」
今度は徹が感心しながら首を縦に振った。
「トロフィーですか・・・学生時代の物がほとんどですね。大学時代にレスリングをやっていて、その時の・・・」
「大学のレスリングからプロレスに進んだのですか」
徹が再度、写真を眺める。
ヒゲさんが引退を決意した理由
「ええ。期待されてプロレスラーになったんですが」
京子が控えめに答えた。
「いつのころからか、心臓が悪くなってしまいまして」
「心臓ですか」
「学生時代から無理をしていたのだと思いますが。プロになって10年が経過した頃から、体調不良が続きまして」
ヒゲさんは心臓内で刺激伝導系の障害が発生し、心房から心室に刺激が伝わらない房室ブロックという病気になり、重病化する前に大事をとり引退を決意したのだという。
「現役の頃に出会った頃から、本人はプロレスラーは命をかける仕事だと、よく話していました」
京子が控えめに話しを続けた。
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以下のブログで内容を紹介しています。
mushiman’s write-up on the book
なお、「海に沈む空のように」告知のため、「闇が滲む朝に」「🐑章 二人の逃避行」第31回は15日のアップを予定しています。
「闇が滲む朝に」🐑 章 第29回「二人の逃避行 ヒゲさんは一体、何者だったのか」
ジョイというハスキー犬
ヒゲさんは自宅に着くと徹をはなえを先に降りるようにうながし、車を車庫に入れた。
玄関の横には縦横2メートル程の柵が作られ、中には大型犬が寝そべっている。
「ジョイ」とヒゲさんが呼ぶと、尻尾を振りながら犬が柵ごしに駆け上がってこようとした。ヒゲさんは「よしよし」と柵の隙間から犬の頭をなでた。
「ずいぶんと、大きな犬ねえ」
はなえが少し怖そうに言う。
「はい。ジョイです。ハスキー犬ですけ。大丈夫ですよ」
ヒゲさんはうれしそうにジョイの首のあたりをなでながら答えた。
「また、あとでな」
ヒゲさんは言いながら自宅の玄関の方に歩くと戸を開けた。
「帰ったよお」大きな声で言いながら、「さ、どうぞどうぞ」と徹とはなえに家に入るよう勧めた。
「いらっしゃい。こんにちは」
家の中から一人の女性が出てきた。
「今日、『もとずろう温泉』に泊まるお客さんだ。さっき『竜乃湖』に連れてったさ。応接間にでも」
「そうですか、それはそれは、どうぞ、どうぞ」
女性は2人にスリッパを出した。小ぎれいな女性だと徹は思った。
「家内です。こちら森木さんとはなえさん」
ヒゲさんの奥さんは突然のお客に慣れているのか、柔らかな表情で二人を玄関から奥にある応接間に案内した。
家近くにクマもイノシシも出る
「少し寒いかも知れませんが、今、暖房を入れますので」
ヒゲさんの奥さんは言いながら暖房の自動スイッチをオンにした。
「さ、こちらに、どうぞ座ってください。お二人ともコーヒーでよろしいですか」
「あ、あまり気を使わないでください」
徹が申し訳なさそうに頭を下げた。
「大きな犬ですね」
はなえが言う。
「びっくりしたでしょう。でも大丈夫ですから。いやこの辺は山の中でしょう・・・・最近はどうも野生動物たちが増えていましてね。イノシシやシカ、クマなんかが下りてきたりするもんですから」
「そうでしょうね。比較的、町から電車で1時間と少しとはいえ、山間部ですもんね。そういえば、最近は民家の近くにもクマやイノシシが出たりするのが増えているとニュースで見たことがありますよ」
「ここでは、もうすぐ近くにクマがいたりするんですよ。数年前にも近くに住む登山家が襲われたりしていますし」
ヒゲさんの奥さんが深刻げに言う。
ヒゲさんは一体何者だったのか
「へえーそうなんですか」
「運よく命は大丈夫でしたが・・・・大けがをされたんです」
「そうですか。散歩は要注意ですね」
「駅から向こうの方の山は、トレイルランをやったりする人たちも多いようですが」
「ええ、でも。こちらの方に登るとやはり、雰囲気も変わってくるようです。少しお待ちください」
奥さんは思い出したように応接の外に出た。
応接間には多くの写真とトロフィーが飾られている。中には徹が知っているプロレスラーの写真もある。徹は写真の前に立つと、そのレスラーが天源一郎だということがすぐに分かった。
では隣に立っているのは誰か。徹は再度、その写真を見た。隣の男はヒゲはないが、確かに若い頃のヒゲさんだった。
え?、ということは。ヒゲさんはプロレスラーだったのか・・・・・。
「闇が滲む朝に」🐑章 第28回「二人の逃避行 龍神のいる森に住むヒゲさんという男」
龍神様はありがたいから
「竜乃湖」でしばらく立ち話をしながら3人は車に戻った。
ヒゲさんはバックミラーを見ながら、ゆっくりと車をバックしユーターンさせた。
「どうだ、いいとこだっけ」
ヒゲさんが隣に座る徹に聞く。
「ええ。静かでいい所ですね」
「ヒゲさんはここで竜を見たことがあるの?」
後方座席に座るはなえが聞いた。
「うん?・・・・まあ、どうかねえ」
ヒゲさんは言葉を濁すとエンジンをかけた。
ランドクルーザーが重厚感のある音を出しながらゆっくりと動き出した。
「龍神様はありがたいから・・・・龍神様を祀った神社や温泉も日本各地にあるしね。私も家族の健康と安全を拝んできたよ。今日はコロナウイルスを退治してくれるようにね。我々が悪いんだけどさ」
「へええ。はなえさん、詳しいね」
徹が感心したように言う。
のど自慢大会に出っか
「どうする?このまま『もとずろう温泉』に戻っか?それともウチでお茶でも飲んでっか」
ヒゲさんが2人を誘った。時間は午後2時30分を過ぎたところだ。
「え?・・・・」
ヒゲさんの誘いに徹が少し驚いた表情を見せた。
「まだ、のど自慢大会には時間あっさ」
「の、のど自慢・・・ですか?」
「でるっさ?2人とも」
ヒゲさんが前方を見たまま笑みを見せた。
「で、出るって・・・・いえ・・・・・」
「ずんいちろ社長に誘われなかったかい?」
「いえ、のど自慢大会があることは話していましたけど、ねえ、はなえさん」
徹がバックミラーではなえに確認する。
「ええ、なんかそんなこと言っていたね」
はなえが笑みを返した。
自宅でお茶、飲んでけ
「ま、スタートは夕飯が過ぎた午後7時からだから、時間はあっさ。ちょっと寄ってけ。たいしたもんはないが」
「ええ、はなえさん、どうする?」
徹がはなえに確認した。
「せっかくだからお邪魔しようか。いいの?ヒゲさん」
「お茶しか出さねっけ」
「じゃあ、うかがいます」
徹が返事をした。
ヒゲさんは車のスピードを落とすと傍らから携帯電話を取り出しワンプッシュした。
「あ、これから戻るさ。2人お客さん連れてっから」
ヒゲさんは携帯電話を切ると再びアクセルを踏んだ。
車は深い林の中を前に進む。
やがて、目の前に広々とした畑が広がった。
「ここが畑さ」
ヒゲさんがポツリと言った。
「収穫、終わったばっかだから」
ヒゲさんは畑の端の道をゆっくりと進むと大きな家の前で車を止めた。
「闇が滲む朝に」🐑章 第27回「二人の逃避行 やっぱ『竜乃湖』には、何かがありそうだっ!」
やはり何かがいそうだっ!
徹たちが車から降りると、横幅約100メートル、縦約200メートル程だろうか。大きな湖が目の前に横たわっている。湖の奥の方はうっそうとした林を抜けるように延々と伸びている。入口付近には「竜乃湖」と書かれた看板が立てられ、歴史と注意書きが綴られていた。
確かにしんとした雰囲気で、何かがいそうだと徹は直感した。
「静かな、いい所だねえ」
はなえがポツリと言う。
ヒゲさんが両手を合わせて静かに黙とうする。徹は運転席でヒゲさんが言っていたことは本当だと思った。つられて徹とはなえも両手を合わせた。ヒゲさんが何か独り言を言っている。と、バタバタと水面を叩く激しい音がした。
「鴨だ・・・・・」
ヒゲさんが言う。
「鴨ですか・・・・あれ」
徹は水面すれすれに羽ばたこうとする鳥を見た。
「ここに竜がいたんだね」
はなえが聞いた。
「そう。遠い昔の話だけどさっ。あ、そう、たまに竜が見える人がいるけ。ここに来たりすっぺ」
ヒゲさんが再び、独り言を言った。
「り、竜を見る・・・・・ですか」
徹は本当に外見に似合わず、ヒゲさんは大丈夫かなあと感じた。何か悩んでいるんだろうか。
スピリッチュアルだっけ?
「もとずろう温泉に泊まりにきたりすっぺ」
「その竜が見える人・・・・ですか」
徹は笑いながら聞いた。
「そう。なんだ、その、そっちに詳しい人だっ」
「そっちに・・・・?」
「なんだっけ・・・・ス、スピ、よくわからんさ」
「スピリチュアル・・・・ですか」
徹は思いついた言葉を発した。
「あっ、そう。そう。スピリッチュアルだっけ?そのスピリッチュアルに詳しい人とかね」
「いいことあるかもね」
はなえが再び、拝みだした。
「あ、そう。天源一郎さんも来たことあっさ」
ヒゲさんがふと思い出したように言った。
「天源さん・・・・?」
徹は誰のことだろうと思う。
「そう。まだ現役の頃ね」
ヒゲさん、以前は何をやってたの
「天源・・・・・一郎。え?あの」
徹が思い出した。天源一郎とはプロレスラーだ。65歳まで現役で活躍した伝説とまでいわれる名プロレスラーだ。天源はがっちりした身体で、数々の大物レスラーたちと名勝負を繰り広げてきたのだった。徹はプロレスのことは詳しくはなかったが、天源一郎の名前は知っていた。それ程に人気のあるレスラーだった。
「そろそろ戻っか」
ヒゲさんが言う。ヒゲさんが車の後方座席を開けて、はなえに座るよう勧めた。運転席の隣に徹が座った。ヒゲさんの太い腕がハンドルを握る。
「ヒゲさんって・・・・以前は何をやっていたんですか」
徹が改めて聞いた。
「・・・・・・」
黙ったまま、ヒゲさんがエンジンをかける。
「ま、いいけ。そのことは」
ヒゲさんが後方を確認しながら車をバックさせた。
「闇が滲む朝に」🐑 章 第26回「二人の逃避行 異常気象にやられねえよう、『竜乃湖』で拝むっけ」
黄色のランドクルーザーでやってきた
髭面男のヒゲさんから「竜之湖」に誘われた徹は、風呂から上がるとはなえにその旨を伝えた。ヒゲさんが自分の車で「もとずろう温泉」まで迎えに来てくれるという。
近くのうどん屋で昼飯をとった徹とはなえは、午後1時に温泉の前でヒゲさんが来るのを待った。
徹がはなえと立ち話をしていると、やがて約束の時間の5分前にヒゲさんの運転する車がやってきた。
黄色のランドクルーザーでヒゲさんらしい車だと徹は思った。「竜之湖」は温泉から徒歩で歩いても大人の足で20分程だというからそう遠くではないが、はなえのことを考えてヒゲさんが車で迎えにきてくれたのだ。外見はクマのような感じがする男だが、外見に似合わず気の利く男だと感心した。
「ま、見るだけでもいいから」
ヒゲさんは車を運転しながら言った。
「へええ、そんな所があるのかい」
後方座席に座ったはなえが、大きな声で言った。しばらく温泉で仮眠したことで、少し疲れた様子だったが元気を取り戻したのだ。
「ヒゲさんはこの近くに住んでいるんですか」
運転席の隣に座っている徹が聞いた。
畑でケール栽培やってるさ
「ああ、近くさ・・・すぐそこ」
ヒゲさんは運転席から右方向を指した。
「でも、朝から温泉に入れるっていいですね」
「そう。ずんいちろ社長がいいっていうから助かってるよ」
ヒゲさんは左をちらりと見てから、ハンドルを右方向に切った。
「ほんとはお客さんじゃなきゃ、いけねえんだけど」
ヒゲさんはそのままハンドルを戻してアクセルを踏み前進する。少し坂道が続く。周りはうっそうとした木々が棲息している。坂を上ると再び道は平たんになった。
「ヒゲさんはここで仕事しているの」
はなえが聞いた。
「そう。畑仕事だから。ケール栽培をやってるけ」
バックミラーを見ながらヒゲさんが答えた。
「畑仕事・・・・・いいねえ」
はなえがバックミラーに映るヒゲさんを見ながら言った。
「竜乃湖」に行って拝むっけ
「異常気象の影響はないんですか」
今度は徹が聞く。
「今の所は一応ねえけど。俺は山で畑やってっから。海の漁なんかはいろいろ影響が出てるみてえだ。これからは用心しねえとな」
「海は影響が出てるでしょうね」
「そう。だから俺らも気をつけねえと。『竜乃湖』に行って拝むっけ」
「はあ・・・・」
ヒゲさんの言葉に徹は驚いた。
「ほれ、着いた」
ヒゲさんが車を止めた。
うっそうとした林を抜けた後で目の前に広々とした湖が広がった。