Novel life~musashimankun’s blog~

漫画「きっと、いいことあるさ~君が住む街で~」を週刊で連載しています。

「闇が滲む朝に」🐑章 第25回「二人の逃避行 ネッシー?かつて本当に竜が住んでいた」

かつて本当に竜が住んでいた湖
 徹はあまり髭ずらの男とは深い話はしない方がいいと直感し、適当に挨拶した後でお湯から上がった。朝に温泉に浸かることなどないから、少し頭がクラクラした。
 
 近くの洗い場の椅子に座り、前のシャワーを出す。一瞬、冷たい冷気が身体を包んだ。すぐにお湯が出てきた。そのままお湯加減を調整しながら身体を洗い、お湯をかける。もう一度、お湯に浸かろうか考えた温泉の手前には、ちょうど、あの男が身体を洗い終えお湯に浸かろうとしている。
 
 徹は見て見ぬふりをして、そのまま温泉から出た。自分の洋服を置いたロッカーを鍵で開け、バスタオルで身体を拭く。ふと、ポスターに目がいった。
 「かつて竜が住んでいた 竜乃湖」と大きく書かれた湖の写真のポスターが壁に貼ってある。
 
「竜乃湖・・・・・かつて竜が住んでいた・・・・・」
 徹はポスターに書いてあるコピーに目を通した。嘘じゃなかったのか・・・・少し悪いことをしたな・・・徹はそう思いながら洋服を着た。
「そう、これね」
 と背後から禿げた髭ずらの男が声をかけてきた。湯上りで顔が上気している。
 

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仕事は毎日、休みはねえっから
「このことですね。話していたの」
 徹は温泉の中から早く切り上げてきてしまったことを悪かったと思いながら、頭を下げながら聞いた。
「そう、ここっからすぐ、ちかっくだから」
 男は素っ裸のまま顔を拭いた。身体から湯気が上がっている。
 
「ふうう!朝の作業が終わってから、の風呂はほんとっ気持ちがいいわ」
「今日も仕事を終わってからここに・・・?」
 徹が聞いた。
「ああ、ま、休みはねっから。毎日、毎日ね」
 髭ずらの男は自分のロッカーからバスタオルを出して身体を拭き始めた。

 

「ふう・・・・・ずんいちろには随分と世話になってから」
 徹はたぶん、髭げずら男は、入浴料金を安くしてもらっているんだろうと思った。
「ビールがうまいっだ。飲むかっ?」
 また、髭ずら男がにたあと笑った。
「いや、これから外出しますんで」
 徹ははっきりと言った。
 
おたく、わけあり旅行け?
「こんな朝早くから、一人け?よう山登りとかして一人で温泉に入る人もいるけ」
 この人は一体、どこの出身だろうと徹は思う。
「いや、一人じゃないんで」
「家族と一緒け?」
 髭ずらの男は洋服を着始めた。
 
「いや家族じゃないんですけど・・・」
 徹は少し返事に戸惑った。
「こいびと・・・?け」
 髭ずらの男がにたあと笑った。
「いえいえ、そんなんじゃ・・・・おばちゃんを連れてきています」
「おばちゃん・・・・親戚のけ?」
 髭ずらの男の質問に徹が困った表情を見せる。
 
「・・・・・わけありけ?」
「いや、そんなんじゃ・・・・ないっす」
「仕事先の知り合いに・・・・頼まれまして」
「へえ。えらいね」
「ま、竜乃湖はいっかい、いってみたらええけ。そのおばちゃんも一緒に」
 髭ずらの男は詮索をやめて風呂場から外に出ようと扉を開けた。

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「闇が滲む朝に」🐑 章 第24回「二人の逃避行 近くに竜が住んでた湖があっから」

早一番のお客さんですけ?
 徹は「もとずろう温泉旅館」のお湯に浸かりながら、大きく深呼吸した。どこからか静かにお湯が流れる音が聞こえてくる。
「朝早一番のお客さんですけ」
 後方から野太い声が聞こえてくる。

 

「お客さんけ?」
 徹は二度目の問いかけに後方を振り向いた。髭ずらの禿げた男がにこにこ笑っている。
「え、ええ、そうなるんですかね」
 徹は少し戸惑いながら答えた。

 

「俺はずんいちろとは長いから」
 最初は何を言っているのか分からなかったが、付き合いが長い仲のことを言っているのだと理解した。
「だから、ほぼ毎日。日課みてえなもんだかっさ」

 

「毎日、ですか。いいですね」
「近くだから・・・。山仕事終わったらね、こうして」
 禿げた髭ずらの男はにたあと笑った。その笑みに一瞬、徹は何か怪しい雰囲気を感じた。あまり話をしない方がいいかも知れない。そんなことを考えたのだ。

 

竜が住んでいた湖・・・・・
「この先に竜がいた湖があっから」
 次の禿げ男の言葉に、徹は自分の勘が当たったと思った。やはり、何かやばいんでないの・・・・・。
「竜がいた湖があっから」
 禿げ男は、また同じことを言った。

「り、りゅうですか・・・・」
 酔っているんだろうと思いながら、仕方なく徹は対応した。
「そう。竜がいたらしい。俺はそのすぐ近くに住んでっから」
「はあ・・・・」
 徹は曖昧な返事をして二人の会話を切ろうとした。

 

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今度は竜の話をする髭づらの男
 またか・・・・そんなことが脳裏をよぎった。
空手をやっているという五十六、図書館で会った春香さん、そして、今度は温泉に来たら面長のずんいちろ社長に次いで、妙な話をする熊のような髭づらの禿げ男だ。

 

 正社員として働いていた自分が会社を辞めてから、どうも妙な人間に会うことが増えている。どの人もネクタイもスーツも着ていない、すでに自由人という雰囲気を持った人ばかりだ。あ、ずんいちろ社長は一応、温泉経営者だ。ま、よく失敗する同族系の3代目だけどなあ。
 
 なんか妙な人ばかりに会うのも、俺が既に人生の王道をはずれてしまったからに違いないと徹はお湯に浮かびながら思った。
「とにかく、行ってみると、いいさ」
 髭ずら男は、また、にたあと笑った。

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「闇が滲む朝に」🐑 章 第23回「二人の逃避行 お湯に浸かり自分が自分でないような」

カーテンを開けると木々一色だった
「温泉に入りたかったら入ってもいいけど、どうする?しばらく休む?」
 徹は、「もとずろう温泉」の女将・いちこと社長のずんいちろに挨拶した後で、はなえに聞いた。
「そうだね。午前中はね」
 はなえはゆっくりと返事した。
 
「しかし、旅館名がもとずろうで、社長がずんいちろさんってなんか面白いねえ」
 はなえがクスクス笑う。
「なんかホームページに出てたけど。もとずろうさんのお父さんが、ここの温泉を掘り当てたらしいよ。で、今のずんいちろさんは3代目になるらしいね」
「へえーそうなんだ」
 はなえが真顔になった。
 
「じゃあ、俺は軽く温泉にでも入るとすっか」
「そうかい」
「夜はここで食べるけど。昼は外食になるから。すぐそこにうどん屋があるからそこでいいと思う」
「じゃあ、しばらく休んで。昼前にでも呼びにいくから」
 徹ははなえに言うと自分の部屋に入った。部屋は四畳半で窓の方が縁側で長椅子が置かれている。カーテンを開けると辺りは木々一色の風景だった。


いかに困難な状況を受け入れ好転させていけるか
「へえー」
 徹は久しぶりに来た温泉の風景に心が休まる思いがした。本当は以前のように妻の多恵子や息子の和樹を連れて、ここに来るべきだった。ふと、徹の脳裏に多恵子の顔が浮かんだ。 

 

  徹が正社員として働いていた会社を辞めて以降、二人の間はぎすぎすとした雰囲気に包まれることが増え、冷たい風が吹いたままなのだ。こんなことをしている場合ではないのだ・・・・。
 

 でも、変えられないものを変えようとしても、変えられない。いかに困難な状況を受け入れ好転させていけるか、しかないのだ。
 「ま、いいか。どうにかなるだろ」徹は窓の外に広がる木々の1本1本を眺めながら、独り言を言った。この「ま、いいか、どうにかなるだろ」が今までの徹を何とか普通の男にさせてもいたのだ。
 徹はバッグの中からバスタオルなどを持ち出すと、そのまま温泉のある場所に向かった。
 

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自分が自分でないような・・・
 温泉は徹の部屋から玄関を抜け、少し奥に入った所にあった。さすがに午前11時近くとあって中に客が入っていることはないだろうと思ったが、風呂場からは人のいる気配が聞こえてきた。

 

 中を数人の歩く姿が見えた。徹は洋服を脱ぎ裸になると、そのまま温泉風呂の中に入った。瞬間、温泉の熱気が身体を包んだ。ザーっと水が流れ続ける音がする。
 
 大きな窓の外では露天風呂も浸かれるようになっている。窓の外はここも木々一色だ。徹は一番に風呂に近い洗い場に座り身体をお湯で流すと大きく深呼吸し、そのまま温泉に浸かった。身体に熱いお湯がしみ込んできた。
 

 徹はお湯に浮かびながら、本当の自分は、この身体の自分ではないのではないか、嫌なことも全て忘れて、身体が自分の物ではないような感覚になるのだった。

「ああ、いい湯だなっ」。

 

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「闇が滲む朝に」🐑章 第22回「二人の逃避行 温泉だけでなく、のど自慢にも出てみっか」

もとずろう温泉に到着
 徹たちはタクシーを降りると、どこからか川のせせらぎが聞こえてきた。新鮮な空気に凛と身体が包まれた。はなえが気持ちよさそうに深呼吸した。
 目の前に小さな温泉宿が建っている。古びた木造りの看板に「もとずろう温泉旅館」と大きく書かれていた。

 

「さあ、着いたよ」
 徹がはなえの顔を見た。
「寒いけどいい所だねえ」
 はなえが温泉の前を流れる川をのぞきこむように言った。徹の腕時計は10時を少し過ぎたばかりだ。

 

「一番客かもね・・・」
 そう言いながら玄関を開けた。
「こんちわー」
 まだ、開いたばかりからか中から反応はない。

 

「こんちわー、森木です」
 徹が声を大きくした。しばらくして奥から人の足音が聞こえてきた。
「はあい。いらしゃいませ。女将のいちこです」
 歯切れのよい声で返事をしながら中年の女性が玄関まで出てきた。

 

面長のずんいちろ社長
「この前、予約した森木です」
「はいはい、森木さんですね。ようこそ」
「こちらは町田さんです」
「はい、ようこそいらっしゃいました。朝、早いのにご苦労さまです」

 

「はい。お世話になります」
 はなえは丁寧に挨拶した。
「お荷物を持ちましょうか」女将がはなえのバッグに手をかけようとした。
「大丈夫、大丈夫、これは軽いから」
 はなえがそのまま背中にデーバッグを背負った。

 

「どうぞ、こちらです」
 女将は1階の奥の方に二人を先導した。はなえが2階に上がるのは億劫だろうと、徹はあらかじめ1階の部屋を指定しておいたのだ。
「奥の方が森木さんで、こちらが町田さんのお部屋です」
 女将は奥の部屋のふすまを開けながら案内した。

 

「お風呂はいつでも入れますから、ごゆっくりと」
 女将が案内している後方から一人の男が歩いてきた。
「やあ、いらっしゃい」
 面長の男は太い声で挨拶した。
「こちらは社長のずんいちろです」
「え、は、はじめまして」
 徹は名前を聞いて一瞬、吹き出しそうになった。もとずろう温泉旅館の社長がずんいちろ、だという。

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のど自慢大会にでも出てみっか
「今日は週に一度のイベントもありますから、よかったら出席してください」
「イベントですか」
「ま、それほど・・・たいしたものじゃありませんから。で、町田さんは夜はあまり・・・」女将はずんいちろが徹たちを誘ったことに少し戸惑いを見せた。

 

「イベントってなんですか」
 徹がずんいちろに聞いた。
「やあ、まあね。のど自慢大会をやるんです」
「の、のど自慢ですか」

 

「お客や近所の人、集めてね」
「社長の知り合いで地元の小学校で音楽の先生をやっている太郎さんが、テレビののど自慢番組で優勝したんです。でいつの間にか、お客さんたちとのど自慢大会をやるようになって」
 女将が少し照れ笑いを見せた。
「もしよかったら、ちょっと出てみっかって感じで気軽にどうぞ」
 面長のずんいちろが、マイクを持って歌うしぐさを見せながら言った。

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「闇が滲む朝に」🐑章 第21回「二人の逃避行 行き先は、あの『もとずろう温泉』」

さあ着いたよ。尾花だよ
 コーヒーを飲み終わった後で徹とはなえはトイレに寄り、駅のホームで電車を待った。
 やがて「もとずろう温泉」のある尾花駅行きの電車が予定通りに来た。
 二人は電車に乗ると座席に座り目を閉じた。話していると冗談を言うはなえだが、さすがに70代後半となると、近場のプチ温泉旅行とはいえ慣れない早朝の行動は楽ではない。電車は居眠りする二人を起こさない安定した速度で走りながら尾花駅に着いた。

 

「着いたよ。尾花だよ」
 徹は隣で居眠りするはなえに声をかけた。少し驚いた様子ではなえが目を覚ました。
「早いねえ。もう着いたかい?」
 リーン、やがて出発の高い音が駅構内に響く。
「さ、行くよ」

 徹ははなえの右手を握った。
「よいしょ。もう着いたの。寝てたよ」
 はなえは少し寝ぼけたような口調になった。
 
 土曜日の午前9時過ぎ、既に尾花駅構内は登山客で賑わっている。徹はまだ、会社に正社員として勤務していた頃に家族を連れて近くの山を登ったことがあった。確かこの近くの温泉にも泊まったことがある。

 

「まだ、温泉に入れるまで時間はあるから、どうする?」
「朝早いのに結構、人が多いね」
 はなえが少し驚いたように周りを見渡した。
「この辺は人気スポットだから。誰もが昇りやすい山だから、だから天気さえよければね」

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なんとなく懐かしい 温泉街

「あんたも登ったのかい」
 はなえが聞いた。
「登ったよ。気持ちいいよ」
 二人は尾花山入口付近に歩き始めた。どこからか川の流れる音が聞こえてくる。鳥のさえずりも耳に響いてきた。

 

「ピー、ピー、ピーちゃん。つもちええねー」
「つもち・・・?」
「ああ、つもちええ」
「気持ちね、気持ちいい」
 徹が、はなえの軽いジョークに、しょうがないなあという表情を見せる。
 
「あ、そう、ええ。まだ行くかい?」
 はなえが立ち止まった。
「引き返そうか。もう、宿にも入れる時間だし」
 二人は今、来た道を引き返し尾花駅に着くとタクシーに乗った。
「『もとずろう温泉』」までお願いします」

 徹が運転手に告げる。
「はい。『もとずろう』ですね」
 運転手は笑顔で答えた。
 
「『もとずろう』って、どこかで聞いたことがあるねえ。『もとずろう』・・・・」
 はなえがポツリと言った。
「そう?聞いたことある?」
 徹は外の景色を眺めながら、何か自分がなつかしい気分になるのを感じた。

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「闇が滲む朝に」🐑章 第20回「二人の逃避行 あったかいコーシーを飲みながら」

あんた、コーシーは好きなの
 土曜日早朝のコーヒーショップに客はほとんどいない。軽音楽が店内を華やかな雰囲気にしている。
「おまちどうさま」
 徹ははなえと自分のコーヒーをトレーに乗せて運んできた。
「温泉は午前10時過ぎから入れるようだから。着く頃にはいい時間になると思うけど、ま、急ぐことはないから。着いたら周りを少し散歩でもしようか」

 徹がコーヒーをはなえの方に置いた。
「砂糖は入れるでしょう」
 徹ははなえのコーヒーカップにステックシュガーを入れた。そういえば、徹も数十年前には、若かった多恵子と喫茶店でコーヒーを飲んで将来について話をしていた。まだ希望に満ちていた頃だ。
 
「コーヒーはおいしいね。はなえさんは好きなの?」
「よく飲むよ。インスタントだけど。あんたはどうなの?あったかいコーシー」
「コーシーって・・・・好きだよ」
 徹ははなえのジョークに気づいた。たまに冗談を言うのだ。
 
「うーん、うまいね」
 徹がコーヒーをゆっくりと口にする。
「なんだい、テレビの俳優みたいにかっこつけて。そういえば、あんた、誰かに似てるっていわれないかい。あの髭をはやした二枚目の・・・なんだっけ」
 はなえが誰かを思い出そうとする。

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テレビに出る俳優に似てる
「誰・・・?誰かテレビに出る俳優に似てるかい」
 徹がうれしそうな顔を見せる。
「いたろ、禿げた親父で・・・髭はやした。なんとか、つんぺい・・・とか」
「つんぺい?誰のこと・・・だいたい俺、禿げてないから。誰、それ?」
 また独特のジョークだ。人をほめたように見せて、次の瞬間に落とす・・・・はなえの得意としている口調だ。これは年の功とはいえないが、はなえが時折に見せる、この年まで生きてきた妙な余裕なのだ。
 
「温泉は久しぶりじゃないの?」
 徹が、ふん、つまらんジョークは笑わない、というように、はなえの冗談を無視するように聞いた。
「そうだね。爺さんがいた頃にはよく行っていたよ」
 はなえが笑みを浮かべた。
「何年くらい前になるの?」
「もう5年程前かねえ」
 はなえが自分の記憶をたどるように少し目を動かした。
「爺さんは突然だったからね。驚いたよ」
 はなえが水をゆっくりと飲んだ。
 
爺さんは突然に逝った
「突然・・・・?」
 徹ははなえが何を言っているのか理解できなかった。
「爺さん、元気だったから。それまで。血圧が高かったのがよくなかったね」
 徹ははなえが何を言おうとしているのか分かった。
「亡くなったのが5年前・・・・?」
 徹が確認した。
 
「そう。心臓にきちゃった」
心筋梗塞?」
「そう。あっという間だった。トイレから出てくる瞬間だったね」
「ホームの生活は楽しい?」
 ふと徹は話を変えた。はなえが寂しそうな表情をしたのを見逃さなかったのだ。
 
「うん?楽しいといえば楽しいし、そうでないといえばそうでないかなあ」
 はなえが笑みを浮かべる。
「しょうがないよね。息子さんたち、二人とも実家から離れて生活しているし」
「そうだね。夫婦は二人でいる方がいいよ。だから、私はホームで気楽に生活するのがいいんだわ」
 はなえはそう言うと、再び「コーシー」をゆっくりと口にした。

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「闇が滲む朝に」🐏章 第19回「二人の逃避行 ちみの瞳に恋してるってか!?」

秘めた二人の逃避行?
「この前に外出したのはいつだったかねえ。夏ごろだったかなあ」
   はなえがタクシーの窓の外を眺める。
「8月頃・・・・?」
「そうだね。確か・・・・」
   タクシーが信号待ちで停車した。
「確か息子夫婦と食事したんだね・・・・」
    再び、タクシーが動き出す。

 

「息子さんたち、たまに来るの?」
    徹が聞いた。
「そう。たまにね・・・・」
    やがてタクシーが「キツネ駅」近くの繁華街に入った。繁華街の街燈で一瞬、車内が明るくなった。

 

「その辺で止めてください」
  「キツネ駅」に通じるエスカレーターの前でタクシーが止まった。徹が料金を確認すると運転手に千円札を渡した。
「はい、710円ですね」
   運転手は言いながら財布の中から小銭を集めておつりを返した。

 

「慌てなくていいから」
   徹はタクシーを降りるはなえに声をかけた。
「よっこらしょ」
「忘れ物はないかい」
   徹が再度、タクシーの後部座席を確認する。

 

「こんな時間に外に出たことないから」
    はなえが深呼吸した。

「寒くない?ゆっくりね。二人で逃避行してるわけじゃないから」
  徹が背の低いさなえの背中を押した。
  土曜日の午前6時の時間帯は、駅に続くエスカレーターに乗る人もいない。
 

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タクシーはキツネ駅に着いた
 「キツネ駅」はエスカレーターで上がったところから中央改札に続いている。広い駅前スペースには、朝まで飲んでいたらしい二十代の男女がたむろしていた。平日にはギターやピアノ片手に歌ったり、袈裟を着て読経を唱えたり、このスペースではさまざまな人が自分イベントを行うのだ。

 

「まだ、早いからコーヒーでも飲んでいこうか」
   徹は駅中のコーヒーショップが開いていることを確認した。
   自動券売機で二人分の切符を購入した徹は先に、はなえに改札を通るように指示する。
「出てきた切符を取って」
    はなえは慣れない手つきで自動改札の切符を手にした。

 

ちみの瞳に恋してる年じゃないけど
「へ~早くから店が開いているだね」
   はなえが驚いたような表情を見せた。
「最近は、どこでもコーヒーショップは朝早くからやっているよ」
   二人はそのまま店内に入った。

 

 店内には爽やかな軽音楽が流れている。どこかで聞いたことのある曲・・・確か「ちみの瞳に恋してるってか!?」だ。なつかしいけど、いつ聞いても新鮮な気持ちになる。不思議な曲だ。そう、コーヒーの香りもいつも新鮮な香りがする。

 

「コーヒーでいいかい」
   徹がメニューを眺めながら聞く。
「おまかせします」
   はなえが徹の真似をするようにメニューを眺めた。

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