「闇が滲む朝に」🐑章 第22回「二人の逃避行 温泉だけでなく、のど自慢にも出てみっか」
もとずろう温泉に到着
徹たちはタクシーを降りると、どこからか川のせせらぎが聞こえてきた。新鮮な空気に凛と身体が包まれた。はなえが気持ちよさそうに深呼吸した。
目の前に小さな温泉宿が建っている。古びた木造りの看板に「もとずろう温泉旅館」と大きく書かれていた。
「さあ、着いたよ」
徹がはなえの顔を見た。
「寒いけどいい所だねえ」
はなえが温泉の前を流れる川をのぞきこむように言った。徹の腕時計は10時を少し過ぎたばかりだ。
「一番客かもね・・・」
そう言いながら玄関を開けた。
「こんちわー」
まだ、開いたばかりからか中から反応はない。
「こんちわー、森木です」
徹が声を大きくした。しばらくして奥から人の足音が聞こえてきた。
「はあい。いらしゃいませ。女将のいちこです」
歯切れのよい声で返事をしながら中年の女性が玄関まで出てきた。
面長のずんいちろ社長
「この前、予約した森木です」
「はいはい、森木さんですね。ようこそ」
「こちらは町田さんです」
「はい、ようこそいらっしゃいました。朝、早いのにご苦労さまです」
「はい。お世話になります」
はなえは丁寧に挨拶した。
「お荷物を持ちましょうか」女将がはなえのバッグに手をかけようとした。
「大丈夫、大丈夫、これは軽いから」
はなえがそのまま背中にデーバッグを背負った。
「どうぞ、こちらです」
女将は1階の奥の方に二人を先導した。はなえが2階に上がるのは億劫だろうと、徹はあらかじめ1階の部屋を指定しておいたのだ。
「奥の方が森木さんで、こちらが町田さんのお部屋です」
女将は奥の部屋のふすまを開けながら案内した。
「お風呂はいつでも入れますから、ごゆっくりと」
女将が案内している後方から一人の男が歩いてきた。
「やあ、いらっしゃい」
面長の男は太い声で挨拶した。
「こちらは社長のずんいちろです」
「え、は、はじめまして」
徹は名前を聞いて一瞬、吹き出しそうになった。もとずろう温泉旅館の社長がずんいちろ、だという。
のど自慢大会にでも出てみっか
「今日は週に一度のイベントもありますから、よかったら出席してください」
「イベントですか」
「ま、それほど・・・たいしたものじゃありませんから。で、町田さんは夜はあまり・・・」女将はずんいちろが徹たちを誘ったことに少し戸惑いを見せた。
「イベントってなんですか」
徹がずんいちろに聞いた。
「やあ、まあね。のど自慢大会をやるんです」
「の、のど自慢ですか」
「お客や近所の人、集めてね」
「社長の知り合いで地元の小学校で音楽の先生をやっている太郎さんが、テレビののど自慢番組で優勝したんです。でいつの間にか、お客さんたちとのど自慢大会をやるようになって」
女将が少し照れ笑いを見せた。
「もしよかったら、ちょっと出てみっかって感じで気軽にどうぞ」
面長のずんいちろが、マイクを持って歌うしぐさを見せながら言った。