「闇が滲む朝に」🐑章 第20回「二人の逃避行 あったかいコーシーを飲みながら」
あんた、コーシーは好きなの
土曜日早朝のコーヒーショップに客はほとんどいない。軽音楽が店内を華やかな雰囲気にしている。
「おまちどうさま」
徹ははなえと自分のコーヒーをトレーに乗せて運んできた。
「温泉は午前10時過ぎから入れるようだから。着く頃にはいい時間になると思うけど、ま、急ぐことはないから。着いたら周りを少し散歩でもしようか」
徹がコーヒーをはなえの方に置いた。
「砂糖は入れるでしょう」
徹ははなえのコーヒーカップにステックシュガーを入れた。そういえば、徹も数十年前には、若かった多恵子と喫茶店でコーヒーを飲んで将来について話をしていた。まだ希望に満ちていた頃だ。
「コーヒーはおいしいね。はなえさんは好きなの?」
「よく飲むよ。インスタントだけど。あんたはどうなの?あったかいコーシー」
「コーシーって・・・・好きだよ」
徹ははなえのジョークに気づいた。たまに冗談を言うのだ。
「うーん、うまいね」
徹がコーヒーをゆっくりと口にする。
「なんだい、テレビの俳優みたいにかっこつけて。そういえば、あんた、誰かに似てるっていわれないかい。あの髭をはやした二枚目の・・・なんだっけ」
はなえが誰かを思い出そうとする。
テレビに出る俳優に似てる
「誰・・・?誰かテレビに出る俳優に似てるかい」
徹がうれしそうな顔を見せる。
「いたろ、禿げた親父で・・・髭はやした。なんとか、つんぺい・・・とか」
「つんぺい?誰のこと・・・だいたい俺、禿げてないから。誰、それ?」
また独特のジョークだ。人をほめたように見せて、次の瞬間に落とす・・・・はなえの得意としている口調だ。これは年の功とはいえないが、はなえが時折に見せる、この年まで生きてきた妙な余裕なのだ。
「温泉は久しぶりじゃないの?」
徹が、ふん、つまらんジョークは笑わない、というように、はなえの冗談を無視するように聞いた。
「そうだね。爺さんがいた頃にはよく行っていたよ」
はなえが笑みを浮かべた。
「何年くらい前になるの?」
「もう5年程前かねえ」
はなえが自分の記憶をたどるように少し目を動かした。
「爺さんは突然だったからね。驚いたよ」
はなえが水をゆっくりと飲んだ。
爺さんは突然に逝った
「突然・・・・?」
徹ははなえが何を言っているのか理解できなかった。
「爺さん、元気だったから。それまで。血圧が高かったのがよくなかったね」
徹ははなえが何を言おうとしているのか分かった。
「亡くなったのが5年前・・・・?」
徹が確認した。
「そう。心臓にきちゃった」
「心筋梗塞?」
「そう。あっという間だった。トイレから出てくる瞬間だったね」
「ホームの生活は楽しい?」
ふと徹は話を変えた。はなえが寂しそうな表情をしたのを見逃さなかったのだ。
「うん?楽しいといえば楽しいし、そうでないといえばそうでないかなあ」
はなえが笑みを浮かべる。
「しょうがないよね。息子さんたち、二人とも実家から離れて生活しているし」
「そうだね。夫婦は二人でいる方がいいよ。だから、私はホームで気楽に生活するのがいいんだわ」
はなえはそう言うと、再び「コーシー」をゆっくりと口にした。