「闇が滲む朝に」🐑 章 第23回「二人の逃避行 お湯に浸かり自分が自分でないような」
カーテンを開けると木々一色だった
「温泉に入りたかったら入ってもいいけど、どうする?しばらく休む?」
徹は、「もとずろう温泉」の女将・いちこと社長のずんいちろに挨拶した後で、はなえに聞いた。
「そうだね。午前中はね」
はなえはゆっくりと返事した。
「しかし、旅館名がもとずろうで、社長がずんいちろさんってなんか面白いねえ」
はなえがクスクス笑う。
「なんかホームページに出てたけど。もとずろうさんのお父さんが、ここの温泉を掘り当てたらしいよ。で、今のずんいちろさんは3代目になるらしいね」
「へえーそうなんだ」
はなえが真顔になった。
「じゃあ、俺は軽く温泉にでも入るとすっか」
「そうかい」
「夜はここで食べるけど。昼は外食になるから。すぐそこにうどん屋があるからそこでいいと思う」
「じゃあ、しばらく休んで。昼前にでも呼びにいくから」
徹ははなえに言うと自分の部屋に入った。部屋は四畳半で窓の方が縁側で長椅子が置かれている。カーテンを開けると辺りは木々一色の風景だった。
いかに困難な状況を受け入れ好転させていけるか
「へえー」
徹は久しぶりに来た温泉の風景に心が休まる思いがした。本当は以前のように妻の多恵子や息子の和樹を連れて、ここに来るべきだった。ふと、徹の脳裏に多恵子の顔が浮かんだ。
徹が正社員として働いていた会社を辞めて以降、二人の間はぎすぎすとした雰囲気に包まれることが増え、冷たい風が吹いたままなのだ。こんなことをしている場合ではないのだ・・・・。
でも、変えられないものを変えようとしても、変えられない。いかに困難な状況を受け入れ好転させていけるか、しかないのだ。
「ま、いいか。どうにかなるだろ」徹は窓の外に広がる木々の1本1本を眺めながら、独り言を言った。この「ま、いいか、どうにかなるだろ」が今までの徹を何とか普通の男にさせてもいたのだ。
徹はバッグの中からバスタオルなどを持ち出すと、そのまま温泉のある場所に向かった。
自分が自分でないような・・・
温泉は徹の部屋から玄関を抜け、少し奥に入った所にあった。さすがに午前11時近くとあって中に客が入っていることはないだろうと思ったが、風呂場からは人のいる気配が聞こえてきた。
中を数人の歩く姿が見えた。徹は洋服を脱ぎ裸になると、そのまま温泉風呂の中に入った。瞬間、温泉の熱気が身体を包んだ。ザーっと水が流れ続ける音がする。
大きな窓の外では露天風呂も浸かれるようになっている。窓の外はここも木々一色だ。徹は一番に風呂に近い洗い場に座り身体をお湯で流すと大きく深呼吸し、そのまま温泉に浸かった。身体に熱いお湯がしみ込んできた。
徹はお湯に浮かびながら、本当の自分は、この身体の自分ではないのではないか、嫌なことも全て忘れて、身体が自分の物ではないような感覚になるのだった。
「ああ、いい湯だなっ」。