「闇が滲む朝に」🐑 章第13回「辛い時は戦時下を思え、と春香さんは言った」
図書館であの人に再会
「初心・・・・大事だよなあ、やっぱ」
徹は控室の壁に貼ってある「初心忘るべからず」の言葉を頭の中で反芻しながら「ラッキー園」の外に出た。
午後3時過ぎ、冬の空は晴れているとはいえ、どこかグレーの色合いを漂わせつつあった。この時間帯は「中華・ぶんぺい」には暖簾は掲げられていない。午後5時までは休息時間なのだ。
徹は向かい側の道路に「中華・ぶんぺい」の店舗を見ながら、そのまま真っすぐに●●駅へと向かった。10分も歩けば駅に到着するが、「ラッキー園」で仕事を始めてから、徹は駅近くの図書館に寄ることが増えていた。新聞を読めるからだ。
図書館はまだ建築されてそれほど時間が経過していないのか、新築の匂いがする。館内には学生や主婦や子供、そしてなぜかおじさんたちが多い。おじさんたちには定年した人や失業中の人が混じっているだろうなと徹は思う。
徹はいつものように新聞がストックしてあるスペースに足を進めた。ここもいつものようにおじさんたちが多い。学生や主婦は新聞をネットなど別の手段で読んでいるからだろう。ま、図書館で新聞を読む人は大抵が購読を辞めたけど、何となく今までの習慣で読んでしまう人たちだ。だから、ここもおのずと失業した人や定年した人たちが多くなる。
徹もある意味ではそんな仲間の一人だ。新聞コーナーに着くと、ふと、どこかで見たような人を見つけた。「ラッキー園」で会った時は帽子をかぶっていたが、目を見れば一目で、春香さんだと分かる。それほど春香さんの目には特徴があった。
コーヒーでも飲もうか
「春香さんですね・・」
徹は正面で新聞を読む男に声をかけた。
「あれ?。偶然だね。ここはよく来るのかい」
春香が新聞の隙間から顔を上げる。
「ええ。結構、きます。仕事が終わってから時間があるので」
今の清掃の仕事は午後3時に終えて、まっすぐに自宅に帰宅すると午後4時前には着いてしまう。自宅には妻も息子もまだ帰宅していない。
「そこでお茶でも飲むかい?」
春香は新聞コーナー近くにオープンしている喫茶店に徹を誘った。この図書館は1階フロアの半分のスペースが喫茶店になっている。喫茶店ではコーヒーや飲食関係だけでなく、ビールやワインなども置いているのだ。
春香は新聞を元の場所に戻すと、そのまま喫茶店の方に進んだ。平日の夕方前、意外と喫茶店は3分の1が埋まっている。
「そこでいいかい」
春香が隅の席を指しながら、徹に奥の席を進めた。
「ふうーっ」
徹がふと口にした。
「何にしますか。僕はコーヒー」
春香がメニューを見ながら言う。
「じゃあ、僕もコーヒーで」
春香さんはスタッフを呼ぶとコーヒーを注文した。
「仕事はこの時間には終わるんですか」
春香さんはコートを脱いで椅子にかけた。コートを脱いだ春香さんはトレーナー姿になって随分と若く見える。
「あの施設で働きはじめて、もうどれ位になりますか?」
春香さんが運ばれてきたコーヒーに砂糖を入れた。
「3か月くらいですか」
徹が思い出すように言った。
経済状況は厳しくも戦争ではない
「慣れたかい?」
春香がコーヒーをすする。
「いや、どうでしょう、なかなか。いろいろ注意されたりしますよ」
「先輩に・・・・・・でしょう」
春香が軽く笑みを返した。
「ええ、おばさんとかですが。トイレの清掃とかもやるんで」
「トイレそうじ・・・か。そりゃ大変だね」
春香が一瞬、同情する素振りを見せた。
「今では日本もずいぶんと世界の経済競争に負けて、経済大国といわれた時期からはパワーダウンしました」
春香が話を変えた。そのままコーヒーを飲む。
「ええ。で僕も・・・・」
徹は言いかけて口を閉じた。コーヒーが静かに食道を降りていく。砂糖もステック2本を入れた。以前はブラックで飲んだりもしていたのだ。
「中間層がなくなって、富者と貧者の格差が広がる一方だ、なんていわれたりします」
「それだけ生活が大変な人が増えているってことですよね」
徹は頷いた。
「そう。それは事実です。経済力がなくなるってことは、イコール死を招くってことにつながる。経済状況が厳しいから、実際に仕事で過労死する人も増えているし・・・。ましてや大きな災害も増えている。大きな震災は戦時下に等しいとも言えます。だから確かに生きるか死ぬかを経験している人が増えていることは否定できないね」
春香が少し遠くを見つめながら言った。
二人の間に沈黙が続いた。
「それでもね。このまま大きな震災や災害さえなければまだ日本は平和ですよ。武力戦争がない国を保っている。世界を相手に武力の戦争をしていた時期と比べたら、まだいい方ですよ。だから、辛くなったら戦争をしていた頃の日本や、今も戦時下にある国や人々のことを思うといい。まだ、自分は幸せだと思うから」
春香は再度、正面から徹を見つめた。